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 落語には、泥棒が出てくる話がたくさんあります。「泥棒話」というジャンルがあるぐらいです。泥棒話は縁起が良いとされているので、高座でもよくかかります。タヌキの縁起の良さというのはまだ分かるのですが、泥棒はいったいどうしてそういうことになるのか。どうも「お客さんの懐をねらう」という物騒かつ謎かけめいた連想からのようです。かなりの無理筋ですが、シャレや冗談で成り立っている文化なので、固いことは抜きにするよりしょうがありません。

 泥棒話の登場人物は、落語世界きってのぼんやりした人たちなので、盗みに入ったはずが逆に巻き上げられたり、けんかの仲裁をするはめになったりで、泥棒の仕事を完遂する例は皆無です。当塾落語教室生に泥棒話を持ちネタにしている児童がおりますが、これも典型的なダメダメぶり。あまりの不出来ゆえに親分からクビを言い渡されますが、あと一回だけチャレンジさせてほしいと頼み込みます。親分は情は解するもののぼんやりについては負けず劣らずですから、適当な家に盗みに入らせます。そこで起きるドタバタが無性におもしろい。

 こんな泥棒話をいくつも聞いていると、江戸や明治の昔は悠長なものよ、気楽な泥棒稼業が成り立っていたのだから、などと思ってしまいそうですが、もちろん落語世界での話。庶民が夢想した究極の平和社会というファンタジーの中で棲息している人物です。「十両(今の貨幣価値で百万円程度)盗めば死罪」「一度盗めば敲き、二度盗めば入れ墨、三度盗めば死罪」という重い刑罰が科せられていたのがリアル江戸社会です。人情噺の傑作「芝浜」では、財布をネコババしようとした夫を妻が必死で守る噺ですが、露見したら重罪に問われると恐れおののくあの感覚が現実に近かったのだろうと思います。

 ファンタジーなら徹底的にファンタジーであるべきで、落語の泥棒さんたちは、長い年月をかけて妖精みたいに造形されていったのでしょう。それゆえに聞いている側は、安心して楽しめるのです。

 泥棒とは少し違いますが、詐欺師、ペテン師も落語には出てきます。「鰻(うなぎ)の幇間(たいこ)」という噺があって、幇間(たいこもち)の一八が「どこかで見たような男」を一生懸命ヨイショして飲食にありつこうとするのですが、だまされて払わされてしまいます。私は、昔からどうもこの噺が好きになれません。落語会に出かけて、この噺がかかると残念な気持ちになります。ずっとどうしてだろうかと考えていたのですが、一八をだます男のリアルさにあるのだと思い当たりました。妖精とは真逆の、腹の中ではまったく違うことを考えている人間のリアルな悪意。まあ、こんな写実的な噺も生き続けているってところが落語のすごさとも言えるのでしょうけれど。

                                  (宮森健次)